実験

支離滅裂なことを書き続けて、最後の結論がどんなことになるのかを楽しむ実験。


テーマは、とりあえず「経済」ってことで。


社会的な経済システムの骨格は、「お金を稼いで、それを使う」ことだ。

その中に、モノを作って、お店において、売る = 誰かが作ったものを、お店で、買う
というシステムが入っていて、それを中心に、モノを作る側(部品メーカーとか)だったり、買う側(メディアとか)だったりにそれぞれビジネスがぶらさがっている。
それらは基本的に「会社」というシステムが真ん中にあって、そのまわりに個人でやっているひとがいる。
さらにインターネットというシステムが横串ではいってきたが、いまのところ、従来のやり方を当てはめていて、新しい取引の場、という感じ。
本当は、これらを包含するかたちで「投資」という概念がしみ込んでくるのだが、まあ、大体世の中のシステムはこんなところだろうか。あってるのか?

ぼくはふつうにいまの世の中は根本的に面白くない、と思っているが、こうやって世の中を俯瞰してみると、問題は、根本的な部分=お金を稼いで、それを使う、という骨格が「全然、面白くないね」という状況にあると言わざるを得ない。

何かの対価としてサラリーが支払われるわけだが、その「何か」のすべては、誰かが(=自分が)「ものを買う」へと確実に結実する。湧き水がいつか海へと流れ着くように確実に。そのシステムそのものがなんだか「不毛」な気がしてしまうのだ。(湧き水が海につながってるのを想像した方がワクワクする。)

先日友達が、「世の中とか地球環境とか地域とか、誰かに役立つことをしたい」と小学生のようなピュアなことをいっていた。わかる。おれもそうしたい。それはかつての「ついで」的なボランティア精神ではなく、それを「生きることの根幹」に据えたい、ということだと思う。

それでそれなりに暮らしていけるだけのサラリーがあればそれで充分かもしれない。

でも、いま、そんなピュアなことでそれなりのサラリーなんてもらえるか?というか、そもそも、自分のやったことの対価を求める、というこれまでの発想に当てはめることがほんとによいのか?いいことしたくてやったのに「じゃ、御代を・・・」とは言いづらいだろうが。

以前、CO2排出権を購入する、という新しいシステムの存在を知ったとき、感動を覚えた。CO2を出しちゃうひとが、出さないひとから「出さなかったこと」を買う。すげー斬新。
これが成立しているのは、誰かが「これだけしかCO2出しちゃだめ。超えたら(罰金)」というルールを作ったから。考えてみれば
みんなで使える「お金」というルールを決めたことからいまの状況は始まっているわけで、「ルール」っていうのは新しい何かを生み出すのだ!

経済から流れ着いた結論:ルールが何かを生み出す。

ほんとは、ボランタリー社会の実現に向けた制度とは?
というテーマに流れそうだったが長くなりそうなので
今日の実験はこれでおしまい!