自慢じゃないけど。

こう見えて(どう見えて?)時間にはキチリとしている方でして。

この10年、プレはもちろん、打ち合わせにも遅刻するようなことはなかったのですよ。

それがですね、この一月に2回も「起きた時間が集合時間」!

前日は深夜残業で4時帰り、とかならまだしも、

SEX AND THE CITYのDVDを一気見してなお1時過ぎにはベッドにもぐりこんでいた

にもかかわらず。

はい!緊張感なさすぎ〜♪

創意工夫

キムタクのドラマ「CHANGE」の最終回を観ました。

25分のノーカット長回しが話題になりましたが、
実際に観ていて「おいおい、これいつまで続くんだよ」と思い、
多少飽きつつも結局最後まで見てしまいました。

おそらくチャンネルをチェンジさせないチカラは相当なものだったかと。
結果だけみればみんな「テレビにくぎづけ」になってたはず。

実際、最終回の視聴率は、ごくせん初回を超えて今年のドラマで最高だったみたいですね。

ドラマ、しかも最終回というのは、
めまぐるしく展開されるもの、その展開にひとはくぎづけになる、
という常識を見事にうちやぶった
新しい手法だと感心しました。


新しい手法といえば、古典文学にグラビアをつけて売り出す文庫本シリーズも
やられた感あります。

純文学だけに、青年誌のようなB級アイドルではなく、夏帆ちゃんのような邦画系女優を起用できる
というところもいい計算がされてます。

その作品の世界観を視覚的に訴えていて、かつ
古典なんだけど新しく見えて「いま読むもの」になっている。

単純に思わず手に取ってしまうチカラもあります。

広告的に考えると、夏帆ちゃんを起用した「本っていいね。」的キャンペーンがあって、
作品がぶらさがっている・・・となってしまうのがふつう。

これは、広告と商品を一体化させた、という捉え方もできるかもしれません。
それ自体がニュースになってPRされているわけだから広告としての役割は充分果たしていると・・・。

こうゆうやり方が「いまっぽい」コミュニケーションだなーと思う。
問題は「じゃあ、俺たちはどうやって稼ぐの?」ってことですが。


ドラマ離れ、本離れ。クルマ離れ、酒離れ。広告離れ。

いろんなものと離れ離れになっているようですが、
だからこそ、工夫次第で新しいもの、新しい表現が生まれる可能性がある。

そんな時代って、もしかしたらけっこう悪くない時代なのかもしれません。

久しぶりの日記です。


仕事が忙しくなってくると更新しなくなるという、
ブログが続かないひとの典型のようなこのブログです。

最近、一週間がめちゃっパヤです。飛ぶように過ぎていきます。

そんな中、考えるのが、


「幸せってなんだろう?」


という哲学的なこと。

難しいよね〜、幸せって。


いや別に、いま、幸せじゃないってわけじゃないんだけど。いやむしろ幸せなんだけど、
昔は「幸せってなんだろう?」とか考えたこともなく
「幸せは、ポン酢しょうゆがあるうちさ」といわれて「そうかも♪」なんて
思ってたくらいなので。

あの時代って「幸せってポン酢しょうゆがあるうちさ」って言っちゃうことがカウンターになっていて
「(逆に)そんなもんかもね」という気づきがある、そんな空気が流れてたけど、
いまは、なかなかそうも言ってられないっていうか、むしろ「リアルすぎて何も感じない」
(ホットモットがご飯がなんとかって言ってた気がするが、あまりグッとこないのはそのせい?)
っていうような状態なのかも。
むしろ「ポン酢しょうゆをイチから作るようなロハスなうちさ」までいくと幸せかも?

まあいいやどうでも。


ただああいうCMがあって、子供が真似してうちで歌ったりして
なんか、そんな風景まで含めて「あ〜これがほんとの幸せかも」って感じられるには
実は、仕事とか社会の中で「精一杯がんばって努力して成功したり挫折したり競争したり」
みたいなことがあってその中で「ふっと大切なものに気づく」みたいなダイナミックさが
あってのことだと思うのよ。それがまた「よし、また明日もがんばるか!」という活力になったり。

たしかにいまもみんな仕事とか社会の中で精一杯やってるんだけど、
なぜかそのカウンターとしてプライベートが機能していない気がするのは俺だけか?

ONとOFF、それぞれを割り切る、というのがスタンダードな考え方になってきてると思うけど、
それだと、なんかそれぞれが相乗効果として生み出すダイナミズムがない分、
「なんだかな〜」という空気になってる気がします。

子供がいると、もっとそんな感じになるのかな?
結局、自分のために働いたり、プライベートを過ごしたりしているからダメなのかな?
「趣味人」とかに昔は憧れたけど、なんかあれも違うよね。
じゃあ、どんな生き方がいまの憧れなのかな?


そんなことをうだうだと考えながら、企画を練ってます。


おしまい。

地デジって。

最近、不安に思うこと。


地デジは、このままずっと「地デジ」なんていう名前でやっていくのか?

ビールの新ジャンルも、いつまでも「新ジャンル」ってわけにはいかないだろう。


でも、世の中けっこういい加減な呼び名でまかりとおってるものも多いことに気づく。

「ケータイ」とかかなりいい加減。あと「冷やし中華」とかも、ちょっとくくりが大雑把すぎると思う。

おくさんが「ブルーレイってひどくない?」といっていたのも、よくわかる。


不安定な足場の上に色々とのっけちゃってるジェンガ的な不安。

実験

支離滅裂なことを書き続けて、最後の結論がどんなことになるのかを楽しむ実験。


テーマは、とりあえず「経済」ってことで。


社会的な経済システムの骨格は、「お金を稼いで、それを使う」ことだ。

その中に、モノを作って、お店において、売る = 誰かが作ったものを、お店で、買う
というシステムが入っていて、それを中心に、モノを作る側(部品メーカーとか)だったり、買う側(メディアとか)だったりにそれぞれビジネスがぶらさがっている。
それらは基本的に「会社」というシステムが真ん中にあって、そのまわりに個人でやっているひとがいる。
さらにインターネットというシステムが横串ではいってきたが、いまのところ、従来のやり方を当てはめていて、新しい取引の場、という感じ。
本当は、これらを包含するかたちで「投資」という概念がしみ込んでくるのだが、まあ、大体世の中のシステムはこんなところだろうか。あってるのか?

ぼくはふつうにいまの世の中は根本的に面白くない、と思っているが、こうやって世の中を俯瞰してみると、問題は、根本的な部分=お金を稼いで、それを使う、という骨格が「全然、面白くないね」という状況にあると言わざるを得ない。

何かの対価としてサラリーが支払われるわけだが、その「何か」のすべては、誰かが(=自分が)「ものを買う」へと確実に結実する。湧き水がいつか海へと流れ着くように確実に。そのシステムそのものがなんだか「不毛」な気がしてしまうのだ。(湧き水が海につながってるのを想像した方がワクワクする。)

先日友達が、「世の中とか地球環境とか地域とか、誰かに役立つことをしたい」と小学生のようなピュアなことをいっていた。わかる。おれもそうしたい。それはかつての「ついで」的なボランティア精神ではなく、それを「生きることの根幹」に据えたい、ということだと思う。

それでそれなりに暮らしていけるだけのサラリーがあればそれで充分かもしれない。

でも、いま、そんなピュアなことでそれなりのサラリーなんてもらえるか?というか、そもそも、自分のやったことの対価を求める、というこれまでの発想に当てはめることがほんとによいのか?いいことしたくてやったのに「じゃ、御代を・・・」とは言いづらいだろうが。

以前、CO2排出権を購入する、という新しいシステムの存在を知ったとき、感動を覚えた。CO2を出しちゃうひとが、出さないひとから「出さなかったこと」を買う。すげー斬新。
これが成立しているのは、誰かが「これだけしかCO2出しちゃだめ。超えたら(罰金)」というルールを作ったから。考えてみれば
みんなで使える「お金」というルールを決めたことからいまの状況は始まっているわけで、「ルール」っていうのは新しい何かを生み出すのだ!

経済から流れ着いた結論:ルールが何かを生み出す。

ほんとは、ボランタリー社会の実現に向けた制度とは?
というテーマに流れそうだったが長くなりそうなので
今日の実験はこれでおしまい!

スナック2008

世田谷は上町。焼肉くって上機嫌のぼくら。

「カラオケしたいね。」

「なんかボックスじゃなくて、スナックな気分じゃないっすか?」

「わかるわー、いいねースナック」

といった、かるーい気持ちで、

おかあさんがひとりで切り盛りする場末感たっぷりのザ・スナックに潜入したのでありました。




お客さんは、

●穴掘りが仕事のオジサン4人組

●30代女性ふたりとそのお祖母ちゃん(推定85歳)




30代先輩とおれ。カウンターに通される。





●明日早いから〜、といいながら歌い続ける「穴掘り職人」

昭和歌謡でうめつくされた「カラオケ画面の予約表示」

●棚に並んだボトルキープは、オール「JINRO」

●女性ふたりが完璧な振り付けで歌いきる「ピンクレディ・メドレー」

●ちぢこめた腕を小刻みに震わせるおばあちゃんの「独特のダンス」




ボクの背中で繰り広げられている異質な世界。


そのすべてがここ「ふれんど(スナックの名称)」の日常なのだ。







完全アウェーである。バーレーンなんて比じゃねえくらいの。








「う、うたえねえ。とてもじゃねえけど」









とりあえずウイスキー水割りで様子をみる。



「はじめてでしょ?」とおかあさん。「(はじめて)っす」



「今日は水曜だからサービスね」と手渡されたのは「カラオケチケット(5枚つづり)」







・・・きたぞ。どうする、おれ。このサービス、無にできねえ。



とりあえずあのカラオケ店にある分厚い本で「いけそうな唄」を探すしかねえ。








あれ?なくねえ?分厚い本、なくねえ?






必殺「曲名をチケットに書いておかあさんに渡す方式」である。






「おにいさん、何、歌います?」









教えて!ぎゃくに教えて!






若者らしく、
ウルフルズ?(はじけすぎか?っていうかそもそも知らねえか?)
ブルーハーツ?(おばあちゃん、死ぬかも?)
無難にサザン?(これはありそうだけど、正解か?)

ここで「weeeek」歌いきったらそれはそれでスゴイな(でも、ジャニーズ絶対無理!)





思い出せ!必ず正解があるはずだ。



小学生の頃、だいすきだった「ベストテン」を頼りに、ベストな答えを探すおれ。




そのせつな、チケットに「TOKIO」の5文字をしたためる先輩。おかあさんに渡す先輩。




TOKIO・・・あり・・・のような気もする。そのノリのいい感じ、そしてジュリー。
あー先輩、それ、あるよ。






そして「TOKIO」の文字が画面に現れた。



流れる前奏。こわばる表情。



「まーちがとぶ♪(ひゅーひゅー)←おれ」



いつもよりやや勢いをつけて歌う先輩。もりあげる後輩。



歌い終わる先輩。



カウンターに戻ってくる先輩。









・・・ややウケだ。







ここのカラオケ機は「点数」の評価は出ない。


でもボクたちはすげー気にしていた。


「ふれんど」たちによる評価を。









「68点くらいかな」



「っすね」








とにもかく、先輩は歌いきった。よくやった。68点(自己評価)なら上出来じゃないか。









おれもやってやる!そして先輩を超えてみせる!








腹は決まった。

おれのなかでのベストアンサー。

ふれんどたちへのアンサーソング








そのカラオケチケットは、テスト用紙に見えた。(名コピー)









問題用紙の空欄に、書き込んだおれの答えは・・・








北酒場」(BY 細川たかし









テスト用紙を先生(注:スナックのママです)に提出するおれ。




答えに目を落とす先生(注:スナックのママです)。




「先生、おれの答えは!?あってる!?どうなの〜?先〜〜生〜〜〜〜!!」(心の声)












先生の首が縦にうごいた。わずかに。ほんの小さく。



先生がうなずいた。



先生がちょっと微笑んだ。








北酒場


北の酒場通りには

ながい 髪の女が似合う

ちょっと お人よしがいい

くどかれ 上手なほうがいい

今夜の恋は 煙草の先に 火をつけてくれた女性

からめた指が 定めのように 心を許す

北の酒場通りには 女を酔わせる恋がある






(ぼくには、見えたんだ。赤々と「90点」を伝えるデジタルの文字が。うっすらと、でもはっきりと。)

ファジーネーブルと生グレープサワーと抹茶豆乳ラテですね?

つい先日、「ビール飲んでイェ〜!」とやったわけだが、
これは、消費行動としては極めて旧時代的である。

若者の3人に1人はお酒を飲まず、
ひとりでカラオケに行く人が増えており、
居酒屋ではなくマックで夜を明かしたりするらしい。
居酒屋に行っても「とりあえずビール」なんてなくって
みんなめいめいに好きなカクテルやジュースを頼んで、
そいつをチンビチンビのんでは永遠とダベってるらしい。


本当か?

本当なのか?


女の子なら、わかる。昔から女子の中には少なからず

「みんなビールでいいよね」

「あ、わたし、ファジーネーブル

みたいなやつがいて、
そいつのファジーネーブルがなかなか来なくて乾杯できねえ。うざっ!

それがいまや全員、そんな感じってこと?
むしろ「とりあえずビールでOK?」なんていっちゃうやつのほうが空気読めな〜い?


でもね、おれね、なんかちょっと分かる気もするんだよね。
その一見、冷めた感じ。
もろバブリーな世代の方々との距離感と近そう。



よし、今度、久々に馬場いってみっか。